――――呼ばれている



『こいつ、生きてんだぜ。ほんとにな』

『…これが、お前の言っていた“面白いとこ”か』

『この少女………ここから助けられないだろうか』



おぼろげな二つの足音。
けれどそれがやがて一つになって。
それでも、その“声”はやまない。
ずっと、ずっと。
遠くなったり、近くなったり、揺らいだり、小さくなったり

それでもその“声”は、消えずに



――――呼ばれている

――――呼ばれている





――――だれに?











□■□










翌朝、葉王は日が昇る前に起床すると、出仕の準備を始めた。
まだぼんやりと纏わりつく眠気を振り払う。
慣れた手つきで身支度を素早く整えながら、思い浮かぶのは、昨日の出来事。



『来たるべき時を、待っていたの。……その筈だった』

『でもおかしいの。しるしがなかった。星が流れなければ―――目覚めない筈なのに』



慎重に言葉を選ぶように、彼女は呟く。最後の方は、ほとんど独り言に近かった。
恐らく、予想だにしなかったことに、自分でも訳がわからないのだろう。
それでも決して取り乱したり、見るからに不安そうな態度を取らないのは、それが少女の本質だからなのか。

―――それにしても。

実に不思議な話である。
彼女―――が言うには、あの氷の中で眠り続けていたのは、とある星を待っていたから、らしい。
でも目覚めてしまった。星が流れる前に。
恐らくあの直前の地震のせいだろうと、彼女は言っていたが。

いつからあそこにいたのかと問うてみれば、「わからない」という答えが返ってきた。
わからないけれど、自分が成すべき事だけは、知っているというのである。
布勢はやや胡散臭そうに話を聞いていた。
当然だ。無理もない。

でも、と。葉王は思った。

まだ会ってから一日も経っていない布勢に比べ、葉王はそれこそずっと前から、自然の法則に抗い、実際に氷の中で、あの結界の中で眠り続ける少女を見てきている。何年も、何年も。氷の中で、生きながら眠る少女を。
だからか――何となく少女の言葉に、何か納得するものを感じた。

『その星が来た時…何が起こる?』

少女がそれほどまでに重要視する星とは、一体何なのか。
そこまで大きな流星は、最近観ていない。

葉王の疑問に、は。
ただ…ぽつりと。


『―――――せかいが、うまれかわるの』






―――。

葉王は、無言で少女に宛がった部屋の方向を向く。
とりあえず昨日はあのまま休ませた。
本来ならば、主の出仕支度も女房が付き添うものだが、まあこれから教えればいい。

今は、まだ。
ここの暮らしに慣れて貰いたい。

(…そういえば)

彼女の気配は、紛れもなく人間のそれだ。
ならば。ならば―――

『―――誰そ』

あの、声は。
あの、眼は。
何だったのだろう。

(…まあ、いい)

時間はあるのだから。
後々、ゆっくり尋ねてみてもいいだろう。
帰宅すれば、また―――話は出来るのだから。

そう思い、葉王は邸を出た。










が目を覚ましたのは、完全に日が昇ってからだった。

「………ここ、」

どこだろう。
そう呟きかけて、やがてああ、と自分で納得した。
己の身に起きた事を思い出す。

少しずつ焦点が合っていく。
ゆっくりと起き上がって。

しんと静まり返った部屋。
人の気配がないわけではなかったが、それは遠い。

どうして。
どうしてなの。
心の中で、呼びかける。
繋がっている筈の、大いなる意思へ。

―――ぎゅう、とは自分の肩を抱き締めた。
ひどく心細かった。
殆どの生物は、自力で生きていけるようになるまで育って初めて、母親の胎内から生まれてくる。
ならば、自分は。

大いなる意思は応えない。
繋がっているのはわかるのに―――依然として黙したまま。
何度も何度も呼びかけたけれど。
返ってくるのは、沈黙のみ。

(…何か、意味があるというの)

自分がラゴウが流れるよりも前に、この世界に生まれてきたことに。

たぶん自分が目覚めたことは、パッチの誰も知らないだろう。
ほんとうに予想外なのだ。五百年前の自分ですら、予想だにしなかった。

(……ああ、でも。今までの『私』とは少し違うのだっけ)

今の自分は、名前を貰った。
自分だけの名前。
私の名前を。

「………」

もしかしたら――あの星が流れるまでの間、自分はずっと一人で過ごさなければいけなかったかもしれなかった。
…あの彼が、いなければ。

肩から少しずつ力が抜けていく。
身元の知れぬ自分を、ここに置いてくれた青年が、脳裏に浮かんで。

…だいじょうぶ。

そう思えた。
知らずに詰めていた息を、ゆっくり吐く。

―――だから。

彼の為に。
出来ることがあるならば、返そう。
名前をくれて――そしてここに住んでもいいのだと、言ってくれた彼へ。



そう考えて、は部屋を出るととりあえず邸の中を歩き回り、葉王の姿を捜した。
だけど―――何故か彼は見当たらなかった。



ようやく見つけた朗等に居所を尋ねると、何と主はもうだいぶ前に出仕したとのことだった。

「今日の所はまだお休み下さいとのことでしたよ」
「……あ、そう」

思わず拍子抜けしたの前に、何かがずいと差し出される。

「あと、これを着て欲しいとのことです」

そう何故か気まずそうな朗等に装束を渡されたは、今自分がようやく、単衣を重ね、簡易帯を締めただけの姿だったことを思い出した。










空はやや薄みがかった雲で覆われていたが、京とあって市場はかなり賑わっていた。
大勢の人間が行き交い、やや埃っぽくもあったが、それが生活感というものなのかもしれない。

(これが今の匂い。この時代の、国の、匂い)

は何も知らない。この時代のこと、この国のこと、そしてそこに生きる人々のこと。
はすうっと息を吸った。少しだけ冷たい、それでも人の温もりが滲んだ空気が、腹の底にしみこんでいく。
心に、刻み付けるように。
―――五百年ぶりの、現世だ。

「……あ」

ふと、前方に見覚えのある影を見つけた。
こちらに向かって歩いてくるその面差しは、間違いない。布勢だ。

「…こんにちは」

しばし言葉に迷ったが、無難な挨拶の台詞を投げかけた。
すると、布勢は一瞬ぽかんと立ち止まり、何故か素早く周囲に視線を走らせる。

「………何してるの?」

と、が問うと。
ようやく呼ばれているのが己だと気付いたのか、布勢は再びに視線を戻すと、まじまじとの顔を見つめた。
そして、軽く息を吐き出す。

「何だ、あんたか…見違えたな。どこの少年かと思ったぞ」

誰かわからなかったらしい。
その言葉に、は「ああ」と納得した。

「やっぱりこの着物、男物なのね」

狩衣の袖を持ち上げながら、あっさりと言う。

「葉王がくれたの。…でもこれ結構不便ね。袴は歩きやすいけれど、この上着の方はどうも着にくくて」

眉を顰めながら、狩衣の裾をつまんだ。
やや着古された感じがするのは、持ち主の彼が昔身につけていたものだからだろう。
朗等に手渡されたあと、どうにか一人で奮闘したのだが、その面倒なこと。一つ整えれば一つが崩れ、は他の使用人たちに手伝って貰い、ようやくここまで漕ぎ付けたのだ。

「………あのやろう、本当に着せやがったのか」

何故か布勢が、呆れたように呟いた。

「似合わなかった?」
「いや、そういうわけじゃないんだが」

深々とため息をつく。










―――葉王とは違い、布勢は今日出仕は休みだった。

「……皆一緒に休む訳ではないの」
「まあバラバラだな。一斉に休んじまったら、その日は仕事にならんだろ」
「昨日も布勢は休みではなかったの?」
「あ、昨日は仮病」

あっけらかんと布勢が告げると、しばしの表情が固まった。
たっぷりと間を置いて、ようやく小さな声で尋ねてくる。

「……何故?」
「やーちょっとな…ちょうどいいネタを仕入れたもんで」

あの可愛くない後輩を揶揄する為の噂を。ある意味弱みとも言う。
だが勿論、そんなことまで目の前の少女には明かさない。

は、わかったのかわからないのか、淡白な表情で「ふぅん」と相槌を打った。余り興味はないらしい。

今度は布勢の方から尋ねてみた。

「しかし何でまた、お前さんは出歩いてなんかいるんだ? しかも一人で」
「………吸ってみたかったの」
「あ?」
「空気をね。吸って、触れて、きちんと肌で確かめたかったの」
「何だ。葉王の邸は、息でも詰まったか」

早速使用人と折り合いでも悪くなったのだろうか。
だがは、首を横に振った。

「ちがうわ。ただ―――がここに、この場所に、この空間に確実に存在しているという、実感が欲しかったんだと思う」

言いながら。
少女の幼い双眸に宿るのは―――やはり見た目とは不相応な、大人びた光。
昨夜見せたあのあどけない笑顔とは、全く程遠い表情だった。

そんな彼女の横顔を見つめながら、布勢は、

「お前、あの氷の中でどれくらい眠ってたんだ。葉王の奴が言うには、俺たちがガキの頃にはもう」
「……そうね」

少女は一つ頷くと、遠くを見つめるような眼差しで答えた。

「ずっと、ずっと、ずぅーっと昔から。はあそこにいたわ。あの場所に、ずっと」
「…へえ。じゃ、俺たちより遥かにお前の方が年上って訳なんだな」

布勢は茶化すような口調で言う。正直言って、まだ彼は半信半疑だった。

「その前はどんな暮らしをしてたんだ?」
「………」
「――俺の予想じゃ、あんたはたぶん、人に仕えられる側の立場にいたように感じられるんだが、どうかな。どっかで大切にされてきた娘だ」
「………」

は答えない。
下らない見え見えの探りに、一々反応するつもりはないらしい。
だが、その瞳に興味深げな光がちらりと覗いたのを、布勢は見逃さなかった。
聞く気はあるのか。――面白い。

「かと言って大人しく言うことを聞いてるだけの姫君ではない……相当じゃじゃ馬娘のようだからな」
「あら。昨日から何か引っ掛かる物言いね。のどこがじゃじゃ馬?」

言いながら、がくすりと微笑う。
―――その顔だよ、とは布勢は言わない。

「世間知らずだと思って近付くと、こっちが痛い目を見そうだよ」

―――なあにそれ。痛い目って、どういうこと。

布勢としてはそういった類の、どこかあしらうような、それでいて面白がるような口ぶりの返答を期待していた。
だが。

「――――…そう、ね。そうかもしれない」

返って来たのは、打って変わって正反対の

色の抜けた、
揺らぎやすい、
ほんの少しだけ沈んだ、声音。

「ほんとうに、そうだわ」

ぽつり、とが呟く。
予想外の反応に、布勢の方が若干焦った。

「な、何だよ。どうした」
「ううん――」

大したことじゃないの、と小さな頭が揺れる。

「ただ、貴方の言う通りよ。は確かに、何も知らないの。あの場所で眠りにつく前と今では、すべてが違いすぎる。
 葉王はこれから覚えていけばいいと言ってくれた。でもね」

遠くを見つめていた眼差しが、ふっと下を向いた。
ため息のような言葉が、その小さな唇から零れていく。

だって、宿を借りて服を借りて、食事の世話までして貰って、何も感じないままでいられるような娘じゃない。こんな素性もはっきりしない人間を迎えてくれて……なのに、今のままじゃ、何一つ彼に返せそうにないのよ」
「…でも、これから教えてくれると言ったんだろう? 女房としての作法も、暮らし方も」
「………そう、そうなのだけど」

どこか考えるようなそぶりを見せて。
必死で言葉を探すように。

(…なんだ、こいつ)

布勢は怪訝そうに、彼女の次の言葉を待つ。
急にしおらしくなりやがって。

そんな彼女の様子を見たのは初めてだった。
確かに会ったのは昨日だったけれど、布勢は何となく、この少女はいつも凛とした双眸で前を見つめているのだと思い込んでいたのだ。
伯父を前にした度胸の良さといい、気の強さといい、どちらかと言えば周りを省みないタイプだと思っていた。
そう、昨夜のように。
真っ直ぐな視線で。
ぴんと伸ばした背筋で。

―――でも、今の彼女は

「…たぶん、自分でも予想外だった事態を、未だに受け入れられていないのだと思う。目覚める筈じゃない時期に目覚めてしまって、きっとまだ、意識が追い付いていないのだわ」

それはどことなく、親とはぐれて途方にくれた子供を彷彿とさせた。
何をすべきか、何処へ行くべきか、己の道標を見失ってしまったように。
寄る辺を失った、小さな子供。

は、……不安、なのよ」

「…驚いたな。そんな繊細な奴とは思わなかった」
「………流石に怒るわよ。無神経ね」

今度こそむっとした目が此方を見上げた。
その顔はようやく、少しだけ、外見相応の稚さを垣間見せる。

(……ったく)

息を吐きつつ、その小さな頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。きゃあ、と小さな悲鳴が上がったが気にしない。

今布勢の隣にいるのは、何とも放っておけない―――子供だった。ほんの少しだけ、大人びただけの。

何だか、彼女が本当に、何年も前からあの氷の中で眠っていたかどうかなんて、どうでも良くなってしまった。
彼女がそう言うなら、それでいいように感じた。
だから。今は。

「うちに来いよ。少し古いが女物の着物もある。女房としての役割も――お前が知りたがっていること、全部。ついでに教えてやるよ」










□■□










門の前で、しばしは邸を見上げる。

「……大きい」
「そうか? 葉王んとこもこんなもんだったろ」

―――そう。
の目の前に広がっている敷地は、確かにあの葉王の大きな邸と同等の広さを有していた。
…それに。

(ここは人の気配が、多いわ…)

葉王の所に比べ、それは明らかだった。
恐らく使用人の数の問題だろう。
人々の歩く音や話し声などが聞こえ、布勢らしい、賑やかな邸だった。

「………」

はゆっくりと邸を眺めた。

「…賑やかね」
「そうか?」

家は住人の姿を反映するもの。
邸とは、そこに住む者そのものなのだ。

ならば、

(―――葉王、は、)

あのどこか物寂しい邸は、



「―――――布勢」

柔らかな声がした。
上品な薫物の香りが、ふわりと鼻孔を擽る。
が顔を上げると―――男の穏やかな双眸とぶつかった。

―――だれ?

どことなく、面差しが布勢と似ている。ただ布勢のそれより、ずっと落ち着いたものだった。

「お客様かい」

紡がれる声音も、ずっと低く大人びている。

「ああ、ちょっとな。兄上、確か使っていない女物の着物が、奥にあったよな?」
「あったと思うが……突然どうした。お前が着るのか」
「何でそうなるんだよ。着るのは俺じゃなくてこっちの」
「まあたまには良いんじゃないか、性別も年齢も超えて自由に振舞うのも。私は反対しないよ。似合う似合わないは、嗜好とは関係ないからね」
「だから違うっての、人の話を聞け!」

「――――で、此方の方は?」

不意にその黒い双眸が、再びの方を向く。
布勢は仏頂面のまま、やや不満げに鼻を鳴らすと、

「……。今度から葉王の家で働くことになってるんだが、作法がわからないってんで、仕事でいないあいつの変わりに俺が教えてやろうかと」
「葉王の所で? また珍しい事があるものだね」

男は不思議そうな顔で首を傾げた。
どうやら彼は、葉王のことを知っているようだった。

「因みに今はこんなナリしてるが、こいつは女だ」
「わかってるよ。女物の着物というのも、彼女に着せる為なんだろう?」
「わかってておちょくってたのか!」
「うん、まあ、そうなるねえ」

「………」

のんびり笑う男と、それに憤慨する布勢とをはゆっくりと見比べる。
―――兄上。布勢は確かさっき、そう言っていなかったか。

「ああもう! ……、そんでこのへらへらと平気で人をおちょくる男が」
「酷い言われようだね。一応、お前の事を可愛がっているつもりなんだが」
「それがおちょくってるって言うんだよ!」

まだ何か言いたそうだったが、布勢は真っ赤な顔で其れを強引に飲み込み、コホンと一つ咳をすると。
気を取り直すように、へ、告げる。

「もうわかってはいると思うが……俺の、兄だ。そして」



「葉王の―――あいつの師でもあるんだ」

布勢の言葉に、布勢の兄―――保明と名乗った男が、柔らかに微笑み会釈をした。










「―――気分はどうかな?」
「………」

にこやかに尋ねられ、はただ息をついた。
その拍子に、袿が微かに鳴る。

「…すこし、歩き難い」
「うん、まあ、そうだろうね」

の正直な感想に、しかしあっさりと保明は首肯した。

「葉王の所の女房だというから、それなりの格好をと思ったんだが。―――女物の着物を着るのは、初めてかい?」
「…――……」

そう、と正直に頷きかけて。
ははたと気づいた。
ここでそれを肯定してしまうのは、この時代にいる者としておかしい。
の齢の外見で、女物の着物を一度も着たことがないなんて、余程の理由がなければ絶対にないだろう。
その余程の理由もでっち上げなければいけない。

そう考え、固まったに。

「ああ、そう難しい顔をしないでくれ。訊いてみたかっただけなんだ。…君はまだ、うまれたばかり、なのだろう?」
「……!」

弾かれたようにが顔を上げた。
見開かれた瞳は真っ直ぐに、目の前で、相変わらず泰然と微笑んでいる男へ。

  どうしてしっているの―――?

僅かに四肢に力が入る。
だが保明は、悪戯っぽく目を細めた。

「文献がね、ほんの僅かだがあるんだよ。大きな流星のこと、異国からの使者のこと、そして―――――世界の王のこと」

それを決める、魂の戦いのこと。
もちろん君のことも、と保明は付け加えた。

「酷く断片的にではあるけれどね。だから詳しいことは全く知らないよ。でも、その定められた時というのが、そう遠くない未来だと言うことだけはわかっている」
「…でも…どうして、ソレが私であると判ったの」
「そういう『役目』だからだよ」
「…役目…?」

訝しむに保明は説く。

「うん。『それ』が『何』か、見極めること。総てのことを判別し、判断する力。私がこの世に生まれた時、天より授かった役目だ」
「……総てのことを」
「ああ。だが何にしたって、判断するにはそれなりの根拠と知識が必要だろう。…おかげで日々勉強の毎日だよ」

そう苦笑して、ひょいと肩を竦める。
その仕草が少し、彼の弟と似ている気がした。

「君のことも、昔読んだ文献と―――あと、そうだね…昨夜のことかな。星がね、綺麗だったんだよ、ひどく。こう落ち着かないというか…ざわついていた。これは何かあるなと思い…私としては、遂に精霊王を決める戦いが始まるのかと思ったんだがね。―――だがいつまで経っても星は流れない。それでも、あれ程の騒がしい星空を見たのは初めてだったから、何もない筈がないと思っていた。
 そうしたら、翌日の今。君が、ここへ来たんだよ」

は注意深く、相手の顔を見つめる。

「……それだけ?」
「まあ、あとは言うなれば……勘という奴かな。これを言ってしまうと、実も蓋も無くなってしまうのだけどね」

の視線を、保明がやんわりと受け止めた。
―――この男の言葉、嘘じゃない。
その口調と表情からは、そういった嫌な匂いがしない。
……信じ、られる?

「…実を言うと、余り自信は無かったんだが―――その様子を見ると、私の勘もまだ捨てた物ではないらしいな」
「……そうね」

捨てた物ではないどころではない。
まさか目覚めた次の日に正体がばれてしまうなんて、思っても見なかった。
は小さく息をつく。
―――本来ならば、軽々しく正体を明かすことも、いけないのだ。

ばれてはいけない。
悟られてはいけない。
だって、


「………保明は、精霊王になりたくはないの」
「うん?」

唐突にの唇から漏れた問いに、保明は不思議そうに首を傾げた。

「そこまでの知識を持って、をソレだと察して尚、どうして」

ばれてはいけない。
悟られてはいけない。
正体を明かされたら最後、覚悟しなければならない。
迎え撃つ覚悟を。

誤った噂に惑わされ、身に過ぎた力を手にしようと、武器を手に向かってくる者達を。

誰も彼もが、己の欲で目をぎらつかせ、飢えた獣のように群がってきた。
ほしい。力がほしいと。ただ貪欲に。
この身が凍りつくような経験も、前回のシャーマンファイトまでの間に何度となくしてきた。

でも、この男は、

「―――ああ。私には別に、世界の王になりたいほど叶えたいものもないからね」

またもやあっさりと保明は頷いた。
思わずが拍子抜けしてしまうほど、いっそ清清しいほどにあっさりと。

「…まあ興味はあるけれども。でも、私には私の、今の生活があるからね―――それを飛び越えてまで手に入れたいものなど、ないんだ」

そう言って、保明は柔らかく微笑んだ。
そうして、ぼんやりと見つめてくるの頭をそっと優しくなでた。

「―――君は、葉王のところにいるんだって?」
「…、え、あ、…はい」

は慌てて頷いた。

「それは、彼が望んだのかい」
「え?」
「君が、彼の邸に滞在すること」
「………」

促されるように、昨夜のことを思い出してみる。

「……別に、彼が是非にと望んだ訳じゃない。が無理に頼み込んだようなものだわ」

だけど、

「だけど、彼は承諾したのだろう?」

――――僕は、構わないよ

「……―――……ええ」

そうが戸惑いつつも頷いたとき。

「…そうか」

何故か嬉しそうに、保明が笑った。





――――不意に、庭先からきゃあきゃあと子供のはしゃぐ声が聞こえ、ははっと我に返った。

「……全く、折角の客人だと言うのに、どこで油を売っていたのかと思えば…」

ふと見れば、保明がやれやれといった表情で、開け放した襖の向こうを見つめている。
――さっきのは、いったいどういう意味だったのだろう。
だが、それをが尋ねる前に、保明はサッと立ち上がって、庭で転がっている布勢と二人の子供に声をかけた。

「こら、お前達! 布勢は今忙しいのだ、遊ぶのなら後にしなさい」

父親に一喝され、二人の子供達は「はぁい」と声をそろえて返事をした。

「……ホレ見ろ。お前らの親父に怒られたぞ」
「ちぇ。これからだったのに」
「ま、いいさ。布勢兄、あとで遊んでくれよな」
「へいへい。ほら、早く行け」

乱れた服を調えながら起き上がった布勢の元から、子供達が屈託の無い笑顔で部屋へと駆けていく。
その様子を、は眩しげに見つめた。

「…すまないね、殿。あれは下の子達の世話をずっとしていたせいか、昔から子供に懐かれる奴でね。…全く、実の父親よりもずっと、あいつの方が子供の扱いは上手い」

保明も、敵わないと言った様に、苦笑を浮かべる。

「でも、貴方だって、子供の相手をするのでしょう」

だが保明は、ゆっくりと首を横に振った。

「時間が許す限りはね。でも情けないかな、私なぞ、いざ構ってやろうものなら『父上の話はむつかしい』とそっぽを向かれる始末だ」

そのおどけたような、拗ねたような口調に―――も思わず微笑んでしまった。
そうして、ようやく気づく。
いつの間にか、肩の力が抜けていたことに。










□■□










「――――貴方の兄上って、どういう人なの?」
「は?」

ギシギシと軋んだ音をたて、ゆっくりと牛車は進んでいく。
太陽は既に真上を通り越していた。
そう広くは無い車体の中で、と布勢は向かい合って座っていた。
の横には、綺麗に折りたたまれ布に包まれた仮衣が置かれている。

あのあと色々と話をした後、「きちんと送ってやりなさい」と保明が牛車でを送るよう、布勢に言いつけたのである。

「…何だか不思議な人ね」
「そうか? 俺には、結構のん気にやってる印象しかないけど」

ぽりぽりと頬を掻きながら、布勢が答えた。

「まあ、知識もあるし、人望も厚い。次期陰陽助との噂もある。うちの兄弟の中じゃ、いっとう優秀な兄貴ではあるけどな。宮中に伶人として招かれることもある」
「………」

そういえば、部屋の奥に、ひっそりと壁に立てかけられた琴を見た。

「兄上がどうかしたのか」
「…ううん」

が邸を発つ前。
初めての牛車に戸惑いながら、何とか乗り込もうとしていたところへ。

『―――葉王を、頼むよ』

後ろからぽつりとかけられた言葉。
振り向くと、保明の静かな双眸とぶつかった。

彼の、あの目が。
妙に忘れられない。
どこか寂しそうな―――笑顔。

「……葉王の、お師匠様なのでしょう」
「ああ、そうだよ。兄上にしちゃかなり可愛がってる方だな。何せ自分から弟子にしたいって申し出たくらいだから」

言いながら、布勢の脳裏に、初めて葉王に会った時の場面が蘇る。
陰陽博士自らの推薦を受け、めでたく陰陽生となった幼い葉王が、改めて彼の伯父に連れられて挨拶に見えた時のことだ。

「どうして弟子にしたいと申し出たのかしら」
「さあな。俺も一度訊いてみたけど、答えちゃくれなかったよ」

布勢の言葉を受け、「…そう」とだけは頷くと、そのまま黙って物見から外を眺めた。
その横顔をしばし見つめて、布勢は言った。

「しかしお前も、不思議な娘だよな」
「どうして?」

脈絡の無い台詞に、今度はの方が首をかしげる番だった。

「葉王がさ―――あいつが、誰かを家に入れたり、傍に置いたりするのって凄い珍しいんだ。俺は見たこと無かった、あんなに誰かに執着するあいつを」

は何も言えなかった。
なぜなら、彼の言うその、「誰かに執着したりしない葉王」というのは、見たことが無かったからだ。

「…貴方が見てきた彼は、どんな人なの?」
「―――師匠に負けず劣らず、優秀な奴だよ。仕事においても、人間関係においても。誰とも諍いを起こしたこともないし、失敗したことも無い。…でも」

決して縮まらない距離。
はじかれる壁。
―――確かな隔たりと、畏怖の視線のその先に、いつも彼はいた。

「絶対に、自分の領域へは踏み込ませない奴だった」
「………」
「せっかく先輩の俺が構ってやろうとしても、相手にしない」
「…ああ、それは、…彼の気持ちがわかる気がするわ」
「どういう意味だっ」

思わず布勢が声を荒げたとき、不意にが外に目をやって「もう、ここでいいわ」と告げた。
見れば、確かに葉王の邸はもう目と鼻の先だった。
だがまだ少しだけ距離はある。

「何でだよ?」
「……その、『誰にも執着しなかった彼』が、『珍しく執着している人間を外から連れ帰ってきた男』に対して、何をすると思う?」

の言葉に、しばしの沈黙が車内に降りる。

「…俺が、怒られる」
「だからここでいいわ。元はと言えば、が勝手に出歩いていたのだもの、もう充分。――ありがとう、送ってくれて」

げっそりとした布勢に、は微かに笑いかける。
そうして止まった牛車から、ひらりと飛び降りると、

「この着物も、たくさんの知識も。ありがとう、ほんとうに」
「…お前も怒られるんじゃないのか」
「それはそれよ。じゃあ、兄上殿にも宜しく言っておいて。ありがとうって伝えて欲しいの」
「わかった」

「…ああ、それとね」

ゆるりと動き出した牛車へ、手を振りながら、ぽつりとが告げた。

「良かったら、またここへきて。彼に、会って。たぶん、あの人も、あなたのこと、そこまで嫌ってないと思うの。………多分」

そう思うのは―――おこがましいだろうか。まだここへ来たばかりの自分には。
だがの言葉は小さすぎて、相手には伝わらなかったらしい。
牛車はそのまま、ゆっくりとした動きで路の向こうへと消えていった。

そのあとを、しばらく黙って見つめる。

――――それでも自分には、思えるのだ。昨夜のやり取りや、今日布勢の邸であったこと、感じたことを含めて。
決して、言うほど葉王と、布勢との間の距離が遠くは無いように、思えたのだ。
それは、あの葉王の師においても同じだった。

路を少し歩いて、葉王邸の門へとたどり着く。
そっと足を踏み入れ、数歩進んだ先で。

「――――!」

足音と共に、声音が。

は顔をあげて、葉王を見つめた。

(……なんて目で、私を見るのだろう)

何を不安がっているの。
何に怯えているの。

「………保明殿の所から遣いが来た。事情は、聞いているよ」

葉王が、静かに告げる。
だけどそこに浮かべられた笑みは、どこか強張っていて。
微かに、何がしかの感情を抑えていることが、わかる。

「さあ、戻ろう。そろそろ冷える。中で白湯でも―――」



「―――あなたの役に立ちたいと思ってた。ここに居ても良いと言ってくれたあなたに、恩を返したくて。だから、布勢に、女房のことや、この国のことを、教えて貰ったの」



気づいたら、勝手に言葉が滑り出ていた。
意識とは関係なく、唇が動く。

どうして?
…どうして。

「……ごめんなさい、勝手に出歩いたりして」

そう、葉王の背中へ告げる。

どうしてか。何故か―――
不意に、彼を悲しませたくないと、思ったのだ。
きっと布勢たちの前では決して見せない彼の顔を、これ以上曇らせたくなかったのだ。

その理由は、わからない。
だけど。

「葉王、」
「…そなたには、淡い色がよく似合うのだな」

ふと葉王が立ち止まり、振り返った。
そして、たたずむの頬をそっと撫でて。

「…ありがとう。すまない」

やっと、葉王の顔から強張りが解けていた。
その表情に、もほっと息をつく。

(―――よかった)

泣くかもしれないと、思っていたから。
どうしてか。
あの、葉王の背中を見て。

「さあ、中へ入ろう」

促され、は葉王の後を続いた。
春先とはいえ、少しずつ日が落ちると同時に辺りの空気も冷えていく。
ふわりと涼しい風がの頬を撫でた。

ざわざわと梢が鳴る。
つられるように、つと、は空を見上げた。
微かに橙色に染まった雲が見える。

―――――『葉王を、頼むよ』

耳の奥で蘇る声がある。
それは消え入りそうなほどに小さくて。

いったい、彼は自分に何を託したのだろう。
自分は何を託されたのだろう。
どうしてあんな―――寂しげに笑っていたのだろう。



は、目の前の葉王の大きな背中に視線を戻す。

―――――答えはまだ、出ない。